2010年12月14日 (火)

夢の話~域育編~

今回は、ウェルカムエイジングの話をお休みして、夢の話をしたいと思います。

テーマは教育です。

そして、夢とは、地域の大人みんなで町の子どもたちを育む「域育」。

江戸時代の江戸の町では、

考え方、生きる姿勢、仕事ぶり、暮らしぶり、人との付き合い方、品格まで、

大人のあらゆる面が、子どもたちの手本となるようにしたそうです。

そのため、江戸の大人たちは手本となる「おとな」でなければならない。

町のどこにいても、いつ子どもが自分を目にしても、恥ずかしくない大人であることが大事。だから、常に自分を律し続ける。

これは、親だけではなく、寺子屋の師匠も隣近所の人も、町中の大人みんなが該当する。

子どもたちは、そういう大人たちのあり方を見て感じて、手本として学び取り、成長していくようになっていたらしい。

こういうシステムは現代にこそ必要であり、大いに活躍するものではないでしょうか。

核家族化といわれて久しい。

また、アパートやマンションで一人暮らしの単身者、独居老人が多く、

様々な社会問題に「孤独」というキーワードが出てきます。

ここには、人づき合いが希薄になり、うまく周囲とコミュニケーションがとれていないことが

見て取れます。

あまりにも孤独が蔓延しきってしまう前に、適度な人づき合いの距離感の勘所を取り戻せれば。

急には無理でしょうが、域育はそのあたりにも一役買う可能性を持っていると考えます。

もちろん、それはラッキーなオマケのようなもので、主たる目的は、日本中の子どもたち

(と、その親たち)のためですが。

オマケついでに、地域の治安を守るためにも一役買うはず! と思っています。

長くなったので、続きは次回に。 

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2007年7月13日 (金)

例えば体験ストーリー

あ、やめてほしいなと思うこと。

人と話をしているときなどに、指差しされること。

意味があってもするべきではないと考えます。

会話のなかで、笑いながらなんとはなしに指す。NG。

少し離れたところにいる人を指すのもNG。

4つくらいのとき、少し離れたところにいる人を指差したら、

グッと指をつかまれて、「指をささない!」と叱られました。

指をつかまれて下ろされた後、顔の前に母の指。

私を指しています。目の前なのですごい圧迫感。

「どんな気分?」と母。

モヤッ、イラッとしたので、「嫌…」と答える。

「あなたが指差した人も、同じ気分になるんじゃない?」と母。

なるほど。

モヤッ、イラッとしている最中に言われたので、

実感として理解しやすかったです。

例えば少し離れたところから、自分のほうをチラッと見ながら人が話をしている。

自分のことを何か言われているのだろうかと考えてしまう。

例えば話している最中に話を遮られたり横取りされると不快。

ひとに対するタブーは、される側を体験することで覚える。

というようなことを、幼稚園から小学校低学年くらいまでくり返しされました。

汚い言葉を吐かない。ののしらない。横柄な態度をとらない。

意地の悪いことを言わない、しない。上からものを言わない。

ディベートは大切で自分の考えは話せなければいけない。

でも、決してぐうの音も出ないほど言い負かしてはいけない。

指をささない。

鼻で笑う、ニヤリと笑うのは品性がなく、ひとを不快にする最低なこと。

ひとをバカにするような言葉を言ったり、態度をとるのも、醜い。

など、不快さを実感すること、もしくは、

機会を捉えてビジョンが浮かぶように、例え話で教えられました。

特にしつけの厳しい家ではないのですが、ひとに対してだけは、

“絶対”見逃してもらえませんでした。

小さいときに指差しのタブーを感じたので、

指されると、やめたほうがいいと促せるときは促します。

そういうわけにはいかないときは、我慢するしかない。

時々、指をさされると、嫌な顔はしませんが、

思わず軽く小さく指をよけてしまったり、指先を見てしまったりすることも。

ああ、まだまだね、私。

と反省です。

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2007年3月23日 (金)

まずは小さな1歩、はじめます

何か違う気がする。

小学生のとき、道徳の時間に対して感じていたこと。

教科書を生徒に読ませ、マニュアルにある答えを導き出して、道徳。

マニュアルで道徳心?

空虚に思え、違う方法があるような気がしました。

高校3年の卒業論文。

小学生のときの疑問と、灰谷健次郎さんの本を読んで学んだことをもとに、

教育についてレポートすることにしました。

日本と世界の教育水準、現在の教育のあり方、重要視されている部分、

教育環境などを調査。

また、欧米でのボランティア精神の育まれ方、あり方。

ドイツでは、ゴミに対する意識を小さいうちから持つような教育が徹底している、

などを調べました。

習慣と環境が大切。

幼いうちは大人より先入観が入らない。吸収力・適応性がある。

例えば月に1日でも養護学校と交流を持つ。

課外授業で老人ホームを訪れる機会をつくる。

道徳の時間では、ゴミを含め環境問題を議論しあうなどをしてはどうか。

家庭で教えるべきもあるけれど、これらは学校だからこそできるのではないか。

集団生活でしかできないのではないか。

そうすれば自然に福祉の認識が身につくのではないか、というようなことを書きました。

これはうろ覚えですが、

主要科目の時間を削るわけにはいかないという意見がでるだろうが、

別の時間を持ち、気持ちを切り替えるほうが吸収率がいいとか、

頭がやわらかくなる(不確かです!)など、調べて書いた気がします。

現在の教育制度を批判するような形になってしまったので、

返ってきたレポートには先生から一言だけでした。

「確かに福祉は必要ですね。でも誰もがやる必要はないと思います」

アメリカでは社会的成功を収め余裕のある人ほど、社会に還元するのが当然らしい。

大企業の会長が休日にボランティアのイベントで、集まった人たちのために、

駐車場の誘導をずっと立ち通しでやったりするのだとか。

幼いときからボランティアは身近なもので、親しんでいるから、

習慣として自然にしみこんでいるからゆえでは。

私はボランティアは強制するものだと考えません。

特別なことをするのではなく、日常の中で自分にできることをする。

ただそれだけのこと。それがなかなか。

そこで習慣が大切なのではないかと。

強制ではなく、幼いときから慣れ親しめる環境をつくるのは、

大人の責任だと思うのです。

習慣を得た後、どうするかは個人の問題。

青臭いかもしれないけれど、とても大切なことだという気持ちは、

18の頃と変わっていません。

ハタチの1年間はボランティアをしていましたが、以来していません。

「日常でできることを」ということも久しく考えていない。

『ニワトリはハダシだ』を観て、10代の頃に考えたことを思い出したのはいい機会。

先月だったか、新聞でベルマークについて書かれていたのが気になっていました。

まず小さな1歩として、ベルマーク、集めようと思います。

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2007年3月21日 (水)

「ホッ」で三度思う

先週、『ニワトリはハダシだ』(2004年公開)という映画を観ました。

各キャストが好演していて、好きだと感じた作品。

感想で書きたいことはたくさんありますが、

養護学校の教師・直子が子供たちと向き合う姿勢。

全力で仕事と付き合っている姿にホッとしたのは、観てよかったことの1つ。

「ホッとした」とはおかしな言い方ですが。

ハタチのとき、1年ほど福祉のボランティアをしていました。

障害者施設の遠足の1日付き添いボランティアに参加したとき、

施設の職員に言われた言葉が衝撃だったので。

「ハタチだっけ? 若いのによくやるよね。なんでこんなことやろうと思ったの?

普通遊ぶでしょ? その時間使ってわざわざ……。僕はさ、給料もらってるからねえ。

タダでしょ? 普通遊ぶよ~!」

ハタチの私はあっけにとられて声も出ませんでした。

ただ、彼以外の職員の方々は、

映画の教師・直子同様、真摯に働いていらっしゃいました。

今回、映画を観て先の職員の発言を思い出し、三度思ったこと。

習慣と環境は大切だ。

職員の男性の発言は、本人の人柄からくるものも多分にある(おそらく)。

それだけではなく、福祉に対する日本のあり方、認識によるところも大きいのでは。

遠足の付き添いボランティアのときも、ボランティア講座の実習で訪れた施設でも、

恥ずかしながら、接した子と意思の疎通がうまく図れず、

どうしたらいいのか固まってしまうことがいくつもありました。

自分のいたらなさ、未熟さを情けなく思うと同時に、習慣と環境の大切さを実感。

これが2度目。

ボランティアに参加したことで、

福祉と社会全体・大多数の人々(自分も含め)との間に距離があること。

福祉・ボランティアが「特別」で、一部の人が考えるものになっていると感じました。

最初に考え出したのは、高校3年のとき。

社会科の卒業論文を書いたとき。

テーマは自由。

政治、環境問題、その当時新聞で扱われていた時事問題。

それらをテーマにしている人が多い。

私も、何にしようか考え、環境問題に関心を持ち出していたので、

それにしようと決めかけていました。

当時、灰谷健次郎さんの本を夢中で読んでいたので、

教育についても関心を持ち出していました。

そして小学生の頃から疑問に思っていたこととリンクして、気持ちが動きます。

教育についてレポートしよう、に決定。

長くなってしまうので、続きは次回。

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2007年1月18日 (木)

教養を考える

愛用の辞書・大辞林によると、

教養

①おしえそだてること。

②社会人として必要な広い知識。またそれによって養われた品位。

③単なる知識ではなく、人間がその素質を精神的・全人的に開化発展

    させるために学び養われる学問や芸術など。

文化。やはりひとによって重要なものなのですね。

辞書の説明の通りに受け取って考えてみると、教養のあるひととは、

文化に関心があり、知った知識で自分を磨き、品格を身につけたひと。

社会人としてということは、社会を見つめる目を、意識をもっているということ。

必要以上のお金至上主義。あっさり起きすぎる殺人。政治・環境問題への無関心。

比較・勝ち負け(優劣)シンドローム。

企業最優先でひとが軽んじられる構造。

世相、ニュースや社会問題を見て考えると、「教養」が見えない。

学問で考えれば、大学まで出ているひとは多いし、現代は小さいうちから

「英才教育」花盛り。「教育」水準は決して低くない。

なのに、教養や品位は…。

大昔の日本は、諸外国から憧れられる文化的で教養のある国だった、

ときいたことがあります。

口で品格とか美とか言うだけでなく、大仰なことではなく、日本全体で、

教養というものを見つめるべきでは、と思います。

自然を愛し、芸術を愛し、文化を育む。

殺戮を拒絶し、平和を願い、日常を慈しむ。

社会、地域でみんなが「思いやり」を持ち合って生きる。

そうなっていけたら、と思います。

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2007年1月11日 (木)

悲惨なモチーフ…

学ぶことは楽しい。今は。

子供の頃は嫌いでした。特に理数系は苦手で。

先日観たドラマで、主人公の少年が勉強しているシーンを見て、

ふと思い出したこと。

小学生のとき、算数の宿題がわからなくて、母に教えてと言うと、

「ご飯をつくってるから、お兄ちゃんに教えてもらいなさい」と。

しぶしぶ教えてくれる兄。

説明されども、説明されども、わからない私。

たぶん、観たいテレビがあったのだと思います。

イラッとし始める兄。

おもむろに私からシャーペンを取り上げ、一気に解きます。

あっという間に宿題終了。

「これ、出しちゃいな」と渡され一件落着、と思った瞬間、鋭い視線。

運悪く(?)母が台所からやってきていたのです。

「お兄ちゃんが解いてどうするの!!」

答えはすべて消され、1からやり直し。

「たとえ0点でも、自分で頑張ったならえらい。けど、

人にやってもらっていい成績とるのはダメ! なら0点取りなさい!」

と、きつ~いお説教を受けました。

宣言どおり、成績が悪くても叱られたことは1度もありません。

自分でやるべきことを自分でやりさえすれば、ダメでもいいんだ(?)と、

都合よく解釈して、インプットされた頭。

中学生のとき、家庭科で編み物の授業がありました。

料理には自信がありますが、恥ずかしながら、編み物、できません。

10センチ程度の正方形のモチーフを編む課題にパニック。

とっても編み物が得意な友達に教えてもらうも、できずにイライラ。

できていくモチーフは惨憺たるもの。

見かねた友達がパパッと作り上げ、

「これあげる。もう十分がんばったよ。これ出しな」と渡してくれましたが辞退。

自分でやらなきゃと悲しい姿のモチーフを提出。

悲しい採点でした。

そんな苦い思い出を、以前、地元の友達に話したら、

「あ~、あんなのお母さんに作ってもらって出したよ」

みんなウンウン頷く。

あれ~? みんな?

チラッと、友達が作ってくれたモチーフだせばよかったなぁ、なんて思ってしまいました。

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2006年12月22日 (金)

恐怖のシンキングタイム

昨日の夜、23時過ぎに更新しようと思ったら、なんだか画面がおかしい。

また、パソコンの故障かと怯えたら、ココログのメンテナンスの問題だったようで。

遅くに直ったようですが、睡魔に従って、更新を今日にまわし、眠りました。

強面のひと。怒鳴り声をあげるひと。

特に怖くないです。ムッとするだけ。

(あ、怒鳴った。怒鳴ったら怖くて思い通りになると思ってるんだ)

と、スーッと気持ちが引く。威嚇されても、納得できなければ、

「うん」とも「はい」とも言いません。

むしろ怖いのは、静かなひと。

後ろめたいことがなくても、なんとなく、ミスをしないようにしなきゃとか、

私、おかしなところはないかしら? と自分の内外を頭の中で点検したりと、

オタオタしてしまう。

なぜかしら? と考えてみると、子供の頃の環境にありました。

怒鳴り声、は置いておいて、静かなひとが怖いわけは。

母の叱り方にありました。

普段はノリがよくて、おもしろい人ですが、私がよくないことをしたときには…。

まず、低く、静かな声で名前を呼ばれます。(叱られる合図)

「お母さんが、何を言いたいか、わかる?」

原因をわかっているときは、「~~だから」と、自分が叱られている理由を言うと、

「わかっているのに、なぜやるの?」ときます。

答えられるわけないですが、話をしなければなりません。

わかっていないときは、「わからない」と答えると、

「考えてごらん」と、私自身に行動を振り返らせます。

シンキングタイム、スタートです。

その間、母はこちらの答えをじっと静かに待っています。

3つ、4つの頃からです。

まずは自分で考える。出した答えに補足が必要なら、母が説く。

こら! バチン!

で、痛い! ムカッ! なら、駄々もこねられたのですが、

今まで、母に手をあげられたのは、すごく聞きわけがないときや、

ここはきっちりわからせておくべきと、母が判断したときだけ。

しかもほんの数回だけ。

ある程度の年からは、叱られても、うまく自己主張する術を身につけ、

反論するようになる。そうすると、我が出て、ムッとすることもある。

でも、小さい頃は、その余裕がないので、低い声で呼ばれたときの、

シンキングタイムは恐怖でした。

もうひとり、兄。

怒鳴り声を聞いたことがない。怒られたことがない。

私が10代の頃。頭にきたことがあって、母にバーッと話して聞いてもらっていると、

静かな口調で、「そんなに怒ると身体によくないよ」。

少々キツイ口調で冷たいことを言うと、「ダメだよ、そんなこと言っちゃ」

「なんでそんなこと考えるの」と、静かに悲しそうに言う。

カリカリしていた心がしぼみます。とっても悪いことをした気分になり、

自分を省みるシンキングタイムに入ります。

それを見て母が「あはは、猛獣使いとライオンみたい」と笑う。

ライオンって、私? 女の子に失敬な! 確かにしし座だけど、と思いました。

こんな環境だったので、静かなひとには敵わない、と思う。

静かなひとに出会うと、コソーッと襟を正すように、

なで肩のなよっちいライオンは、調教されました。

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2006年12月 7日 (木)

生きた自然の体感

市販のトマトジュースが飲めません。

塩が入っていたり、添加物が入っていたり。

味覚が拒絶します。

子供の頃、家の隣に農家のお宅の、ビニールハウスがありました。

ちいさな納屋もあり、わらとか鍬とか、家では目にしないものがおもしろくて、

よく眺めていました。

かわいがっていただいていたので、納屋にもハウスにも出入り自由。

夏はおやつ代わりに、ハウスに入ってトマトをもいで、サッと水で洗ってガブッ。

今日もリコピン摂取、明日もリコピン摂取、明後日も~、

と毎日リコピン摂り放題。

それとは別に、かごいっぱいのトマトをいただくと、母がジュースにしてくれたのが、

我が家の夏の風物詩でした。

天然のトマト食べ放題だったので、どうしても市販のトマトジュースが飲めません。

今も、スパゲッティのミートソースを作るときも、ホールトマトは使いません。

ピューレも使いません。

生トマトから作ります。(なので、トマトの値段の高さはため息)

さて、ニュースで、子供たちへの、死に関する意識調査で、12歳くらいでも、

死んでも生き返ると思っている子が多いとか。

怖い結果です。

それを考えると、今の子、特に都会の子達は、野菜や果物は、

スーパーでうまれると思っている子がいるかもしれない。

お肉もお魚も、切り身の認識しかないのかも。

ちょっと由々しきこと、と感じます。

そういえば、知り合いに、夕べ何を食べたか聞かれて、

「鰯の磯辺上げ作ったよ」と言うと、「えっ? さばいたの?」と言われたことがあります。

「そりゃ、さばくよ」と言うと、「ええ、怖い、信じられない」と返ってました。

なぜ怖いのかよくわかりませんが、おとなでも、魚をさばくだけで驚く時代。

教育現場を変えようという動きが、あれこれありますが、

生きた自然を、世の子供たちが体感できる方法、あれこれあると思うのです。

そちらを考えてほしい。

五感を磨ける場所、機会を持たせてあげること。そのことで脳を活性化して、

思考力を身につけることが「生きる」ということが、

心と身体に沁み込むように思うのですが。

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2006年11月30日 (木)

何のために走るのか

物で釣る。

よくないですよね。でも、最近、自分を物で釣ります。

目標を立てて、クリアしたらこの映画を観る。

これをクリアしたらこの服を買う、などなど。

時々、間に合いそうにないと、買ってしまい、

「買っちゃったからには絶対やり遂げる」とご褒美先払い、

という甘々さが顔を出す。ご都合主義です。

母上ごめんね、教育が崩れていますね。

子供の頃、マラソンが得意でした。

校内マラソン大会で入賞もしたり。運動オンチの唯一の自慢。

根気と根性には自信があったので、それのみで走りました。

家に帰って母に賞状を見せると褒めてくれる。

ふと、友達の話を思い出す。

「あ~あ、10位以内に入れば、ほしいもの買ってくれるっていってたのになぁ」

家に余裕がないのは知っていたので、1度もおねだりしたことありません。

誕生日もクリスマスも、負担のないよう、値段を見ながら選んでいました。

でも、上位入賞で調子に乗っています。あわよくばの気持ちが芽生えます。

「○○ちゃんのうち、10位以内だったら何か買ってもらえたんだって」

喜んで褒めてくれていた母の顔が変わります。

「何それ。物で子供を頑張らせるの? ○○ちゃんのためにならないでしょう。

あなたも何か欲しいわけ?」

と静かに言います。

調子乗りタイム終了。

「何かがほしくて走るなら、来年から走るのやめなさい」

!!!

賞状を私に見せて

「これ! あなたが頑張ったことを称えてくれてるでしょう。これ以上のご褒美ある?」

はい、ないです。二の句が継げません。

ごめんなさいと謝る。

言いたかったことを私が理解したかどうか、じっと顔を見て確かめる母。

理解したと判断したらニコッと顔が緩む。

そして私をハグ。「う~ん、よく頑張った!」と。

そして嬉しそうに賞状を見て、「飾っておこうね」と。

賞状は長いこと、居間に飾られていました。

何のために走るのか、きちんと子供の頃に教えられたんですけどね。

「いいの。今は何のためかがわかった上で、自分とご褒美ゲームしてるの!」

と自分に減らず口。

現在もいくつかあるのですが、なかでも、私が子供の頃から上演している舞台。

1度観たいと思いつつ、行ったことがありません。

来年は絶対観に行く! と決めているので、少々大きな目標を立てようと考え中。

チケット売り出しまで、頑張らないと。

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2006年11月21日 (火)

カルタ名人級で

冠婚葬祭の必要があって。

幼いとき、学校や社会に出て日常の中で、習慣として。

などが、マナーの覚え方、身につけ方にあります。

今日は、日常の中での思い出です。

小学生になった頃、友達の家の前で遊んでいたときのこと。

近所のおばあさまが、窓から顔を出しました。

友達に「うちへおいで」と手招き。

「友達と遊んでるから」と断ると、私を見て、

「じゃあ、一緒においで」と。

お菓子が出されたので、あっ、美味しそうと手を伸ばした瞬間。

おばあさまの目がキラ~ンと光り、同時に手に痛みが走りました。

手をはたかれたのです。

それはもう、スパ~ンと、カルタとり名人のように、華麗に。

子供だったので、ただただビックリ。

「人の家に招かれて、お菓子が出されても、すぐには手を出さない!」。

さらに、

「どうぞって言われてからいただくものよ!」と注意されました。

こう叱ってもらえて、人様のお宅へお邪魔したときのマナーを覚えたのです。

叩かれたときは、「怖いひとだな~」、と気分が悪かった記憶があります。

でも、後々、本当にありがたかったと感じました。

私が子供の頃には、既に少なくなってしまっていましたが、

知り合いでも、そうじゃなくても、おとなは子供に目を向けていた。

その子のために必要だと思えば、ためらいなく叱っていたような気がします。

何度か叱られたことがあります。

昔はもっと多かったと聞きます。

おとながそれを放棄してしまったところもある気がします。

知らない子供を叱り導いてやることを、

世の中が、なぜかNGにしてしまったように感じます。

叱ってやりたいのに、そうできないひと、多いのでは。

社会・地域全体で子供を守り、育む。

今、それが大事ではないでしょうか。

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