2010年10月17日 (日)

学んで、心得て、好いコミュニケーション希望

これからお話していくなかで、「心得」という言葉をたびたび使用します。

心得→辞書によると、

☆技術・技芸などを習い修得していること。たしなみ。

☆何か事に当たる場合に、わきまえておくべき事柄。

☆気持ち、考え方。

また、心得るは、

☆ある物事について、こうであると理解する。わかる。

☆事情を十分知った上で、引き受ける。承知する。

☆すっかり身についている。

☆気をつける。用心する。

とあります。

もちろん、これらの意味で使うのですが、

「心得」という漢字から私が感じたことを含めての使用です。

ということで、心得という言葉について私が感じ、考えたことは。

以前、「ルールはこころ!」という記事で書いたのですが、改めて。

何かを学ぶ、身につけることは“心得る”という。

心を得る。

何かを教えてくれた人の心を得る。関わった人の心を得る。

学んだ物事に対しての、自分の新たな心を得る。

それが生きていく上で、すべてにおいての意義であり、要なのではと書きました。

理解する、身につけるなど学び修めることの裏側に、

心という字を使っている理由があるように思うのです。

自分の心。関わる人の心。

知る物事・自分に起こる物事など現象の心(意味)。

それらの心を得ることの大事。

また、人の心は、相手をよく見て気持ちや状況を察し考えなければ得られない。

相手のことを考え、察する努力をする。

これは辞書にあるとおり、理解すること、わきまえることを示しており、

コミュニケーションにおいて大事な基本。人間関係のたしなみ。

つまり、心得には、

①コミュニケーションにおいて“察する”ことの大事。

②どんなことにも“心”があり、それを得ていく面白さ、味わい。

という意味があるのでは、と解釈。

ということで、このブログで使う心得という言葉は、

通常の意味に、「察すること」「心を得ること」の2つの意味を含みます。

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2008年11月28日 (金)

マナー小話

☆マナーとジェントルマン

ジェントルマン(教養ある立派な男性)は、ジェントリー(大地主)が語源。

イギリス貴族の条件は、大きな都市を所有していることで、

大地主でなければ貴族にはなれませんでした。

それからもう1つ、その地域の人々に対しての功績があること。

そのため多くの地主は、教会・病院・学校・図書館などの施設を居城の周りに建てた。

地域貢献と博愛精神、周囲の尊敬を集めるマナーを身につけている人に、

「ジェントルマン」の資格があるとされたそうです。

ゆとりのある人は、余裕をもってひとを思いやることができるはず。

また、ゆとりのある人でなければできないこと、

ゆとりのある人だからこそできること、というものがたくさんある。

ゆとりのある人、というのはひとに憧れられやすい。

そういう人の“影響力”というものは、良くも悪くも強い。

何かひとのため、社会に貢献するようなことなどをしたら、

いいことなのだから、ひとに見せていいのでは。

日本はどうも、偽善、売名などせっかくの機会を、

ネガティブに封じる傾向があり、もったいない!

服装や習慣など、西洋的なものが当たり前の現代。

紳士淑女の資格も、取り入れる時期ではないかしら、と思うのです。

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2008年10月23日 (木)

和洋・マナーのルーツと今

日本の礼法のルーツには、貴族社会、武家社会があります。

最古のものは、聖徳太子の「冠位十二階」や「憲法十七条」。

それから平安に「公家有職」、鎌倉の「武家故実」、

ふたつを合わせた「有職故実」と複雑に絡み合い、礼法が確立されていく。

それがやがて江戸、明治と庶民の生活の中にも必要なものとして広がっていった。

江戸時代には「江戸しぐさ」という素晴らしい

「生活の知恵、ルール、心を育むしつけ、教え」などなど、江戸庶民の文化が

築かれていったのです。

明治以降は文明開化に合わせ、流れ込んできた西洋文化に合わせて

変化していったのです。

一方の西洋はというと、

ギリシャ・ローマ時代に始まり、中世の封建時代→絶対王政時代に、

基礎ができたといいます。

王朝支配のなか、主君と家臣の上下関係を成立させ、

「命令」と「服従」の秩序を維持するために、マナーや儀式が必要で確立された。

また、多くの民族と国家が絡み合うヨーロッパでは、

マナーの成り立ちは際限なく複雑に絡み合っているらしい。

複雑だからこそ、共通の約束事がなければ、社会が維持できなかった。

さらに、宗教などの影響を受けながら、普遍性を求め、

主張、妥協、譲歩をしながらマナーが形成されていったそう。

和洋どちらもルーツでは政治が大きく意味を持ち、権力やら身分やらと

いろいろあるようですが、最終的には人。

人々の暮らしのためにあるべきものとなっていった。

人が社会のなかで、互いに助け合い、思いやりをもって生きていくためのものとして、

現代でも、この先の未来でも大切にすべきもの。

長い長い歴史を経て、和洋を問わず、王や貴族、公家、武家、平民などの

身分制度の時代ではない現代。

わざわざ、上流、下流(少し戻ると勝ち組み、負け組み)という言葉を用い、

他者と比較して上下優劣を争う。

誰かがそういうことを言い出して、煽られて乗ってしまうのはもったいないと思います。

江戸しぐさのように、良い世であるために、みんなが気持ちよく暮らせるように。

マナーを「生活の知恵」として大切にしていけたら。

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2008年10月 2日 (木)

野次

テレビで政治、経済そのほか各種討論、国会中継などを見るたびに、

「それはいかがなものか」と思うこと。

“話の割り込み”と“野次”。

議論なんてそういうものだという人もいますが、

そうではないやり方でも話し合い、議論はできると考えます。

「世の中そういうもの」という言葉と同じで、

“そういうこと”にしておくほうが楽だから。という言い訳に思える。

「人が話をしているときに、口を挟まない」

「話は最後まで聞く」

「話に割り込まない」

と子供の頃、大人に注意された経験。

覚えのある人は多いと思います。

たしなめられて、会話を覚えていく。

言葉を覚え、話し方を覚え、会話の仕方を覚え、

そして議論の仕方も覚えていく。

だいたい、そのようなプロセスを辿るものだと思います。

それがいつの間にか「そういうもの」のほうに流れると、

話の横取り、妨害、自己表現優先になり、ひいては相手を負かす勝負色が

強くなるのではないでしょうか。

話し合いは勝つか負けるかのためにするのではなく、

人と人との間をよくするために必要なのでは。

いい話ばかりではない。そういうときは、妥協点を探したり、

○○は折れるが、△△は譲れないというように、双方の間で決めていくものでは。

そのためには、割り込み、妨害はマイナスだと思えるし、

まして野次にはマイナスしかない。

野次からいいことが生まれたり、いい流れになるとは思えない。

話し合いは理性的にすべきだと聞いたことがあります。

感情的に物事を進めず、理性的に行うべきだと。

割り込みや野次はまさに、感情的なもの。

やはりすべきではないもの。

にもかかわらず、討論に多い2点セット。

本来、国の舵取りを任されている人たちが集まり話し合いをするべき場である国会。

恐ろしく野次の嵐。

テレビでその様子を見るたびに、ため息が出る。

本当は重要なことを話し合っているのに、国民の幸せ一切なしだとさえ思える、

ただの争いは勘弁してほしい。

という他に、国の舵取りの場で稚拙な感情的会議はいい加減終りにしてほしい。

汚い言葉の野次の応酬。

公人のすることではない。

国のトップの人たちにマナーがないと、若者にしめしがつかないのでは。

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2008年9月29日 (月)

でもやっぱり

お寺や神社、そして仏像が好きなので、旅先や散歩中に見つけると立ち寄ります。

神社を詣でる場合のマナー。

信仰心はないのですが、決まりごとを守って詣でると、なんとなく気持ちがシャキッとして

気分がいいので、これも好きです。

まず心身を清めるということで、手水舎で手水を行う。

この手水の手順。

①右手で柄杓を取り、清水を汲み、左手にかける。

②柄杓を左手に持ち替えて、清水を汲み、右手にかける。

③再び柄杓を持ち替えて清水を汲み、左手の手のひらに水を受けて口をすすぐ。

④もう一度左手に清水をかけて清める。

⑤清水を汲み、そのまま静かに柄杓を立てて清水を柄に伝わるように流して

 柄杓を清めてから、柄杓を伏せて元の場所に戻す。

神前に進むとき、参道の真ん中は神様がお通りになるということで、

真ん中は避け、両側を歩くものとされているそう。

ですが、忘れて思いっきり真ん中を歩くことも。

途中で気づいてアタフタと端に寄ることが多い…。

いざ神前へ。

お賽銭は、「幣帛料」という奉りものを捧げることを簡略化したもの。

だからお賽銭は、神様にお願い事をするためにするのではなく、

祈願成就したことへの“御礼”なので、お礼の気持ちで賽銭箱へ入れるものなのだとか。

祈願成就ということは、最初はやはりお願い事をするのでは。

その祈願はどこで?

いろいろあるのかもしれませんが、信仰心のない私には、

やはり詣でる機会があったときに、願い事をするのがいいのではと思える。

そして、祈願成就した! と思えたら、改めて“御礼”の参詣をして、

感謝をすればいいのではと考えます。

と、頭では結論が出ても、結局、神社を発見して詣でるたびに、

がっちり願い事をします。

せっかくお参りしたのに、願い事をしないのは、と思う人間の性でしょうか。

ただ、“御礼”の気持ちで、の話を知ってから、願い事の前に、

感謝を込めて、「ありがとうございます」、と言うようにしています。

人間だもの……やっぱり願ってしまいます。

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2008年9月 6日 (土)

いただきます

自分でお金を払って食べるのに、「いただきます」、「ごちそうさま」って。

あれは間違ってる。

という発言を聞いてあっ気にとられたことがあります。

その人の言い分だと、自分で作る食事も、

「いただきます」、「ごちそうさま」は不必要ということになる。

食事の「いただきます」、「ごちそうさま」は、

別にご馳走になったときだけのことではなく、もっと根本的なこと。

いただきますは、生命の命をいただいて生きていることへの感謝。

ごちそうさまは、料理を作ってくれた人への感謝の気持ちを表すもの。

どちらも感謝の気持ちを持つ大切な言葉。

自分で作る食事でも、食材があるからこそ、料理をして食べることが出来る。

そうして生きている日々に感謝をこめて「いただきます」、「ごちそうさま」。

食文化に欠かせない基本軸の1つ。

大切にしたい習慣です。

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2008年8月30日 (土)

老若男女のマナー

公共のマナー、大人も直して

先日、新聞の投書欄で目にした中学生の女の子の投書テーマです。

彼女は、電車の中で年配の女性に席を譲ろうとした。

すると女性は、「そんなに年取ってないわ」と怒ったのだそう。

彼女はすごく嫌な気分になったといい、

日頃電車内で見かける大人のマナーの悪さを指摘。

大人は若い世代のマナーが悪いと言うが、自分たちはどうなのかと問いかけます。

そして、マナーは年齢に関係なく守る必要があるはず。

皆が気持ちよくすごせる環境をと願っていました。

彼女の言うとおり、マナーを大事にすることに年齢は関係ない。

老若男女、すべてが大事にすべき。

まず大人がきちんとマナーを大事にしなければ、

小さな子や若い人たちにマナーの心、マナーの意義が届かない。

ましてや、優しさからの行動に噛み付くのは違う。

彼女は悪意で声をかけたのではない。

女性が何歳くらいの方なのかわかりませんが、

彼女の親と同じくらいの年代か、親より年上と思われる人だったとしたら。

彼女がそう判断したとしたら、目上を敬う意味で譲ろうとしたのではと推測。

そう考えたら、優しい子ではないですか。

もし、女性が(私は元気だから、譲ってもらう必要ないわ)と思うなら、

言い方があったのでは。

女の子の気持ちを酌んで、正しい行いをした誇りを守る対応があったはず。

まず優しい気持ちに対して「ありがとう」と感謝を示した上で、

「譲っていただかなくても大丈夫よ」とやんわり辞退すればいい。

皆が気持ちよくすごせる環境。

まず大人が公共のマナーを大事にしなければ。

ただ1つ、女性の気持ちも察します。若さ至上主義の世の中ゆえに、

年齢に対してついピリピリしてしまうのでしょう。

そんな必要がなくなるよう、

“年齢に対する考え方、人が歳を重ねていくことへの感覚”、

社会全体で、変わっていかないと。

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2008年8月 8日 (金)

残暑お見舞い申し上げます

昨日が立秋。

夏の便りが立秋を境に、

「暑中お見舞い」から「残暑お見舞い」になる。

暦の上では立秋を過ぎて残暑。

残っている暑さというより、今がピークのような気がする。

夏が終りに近づいているというより、真っ盛りのような気がする。

立秋と言われてもピンとこない。

昔の暦だから今に合っていない。

子供の頃、いえ、つい最近までそう思っていました。

7月、暑い季節になったから、

「暑い中、お見舞い申し上げます」だから、暑中お見舞い。

まだまだ暑さのスタートだから、暑い中、元気で過ごしてほしい。

どうぞお身体を大切に。

という相手への気遣いの心を込めて「暑中お見舞い」。

8月、暑さの勢いが増す。まだまだ暑い日が続く。

ということは、暑中ということになる。

けれど、最も暑いからこそ、“暑中”とするより、“残暑”としたほうが、

「暑さ寒さも彼岸までって言うし、暑さも残り少しかな。

もうすぐ秋の声も聞こえてくるかな」

便りを見てそんな風に感じられて、一時の涼を得られるような気がする。

昔の人は、もしかしたら、そういう願いを込めて、立秋を過ぎたら、

残暑、としたのかもしれない。

季節の便りはよくできているものですね。

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2008年8月 2日 (土)

行楽のルール

夏本番。

様々なイベントが開催され、どこも大賑わい。

それゆえ、気をつけなければ危険も多い。

毎年都内で大々的に開かれる花火大会へ、

数年前に行ったとき、物凄い数の人が訪れていました。

来る時は、徐々に集まり出す人々も、

花火大会が終われば一斉に帰路に着くため駅へ向かいます。

一人ひとりがルールを守り、気を配りあわなければ、危険な状況。

誰かが身勝手に振舞えば大事故になりかねない。

家族連れで来ている人が多いので、子供もたくさんいる。

にもかかわらず、わがままに振舞う人がいるもので。

牛歩のごとく進む列の中、不平不満をくり返し口にする数人のグループがいました。

ようやく駅へ着いたとき、危険を避けるために、改札の入場制限をもうけていました。

不満グループはそれが気に入らないらしく、

「なんで区切るんだよ」、「どんどん入れたらいいじゃないか」、

「なんだよ、使えね~なぁ、駅員」とブツブツ。

駅員さんは事故が起きないよう、客の安全を考え、

細やかに注意を払い、汗だくになりながらフル回転しています。

実際、駅員さんたちのがんばりで、事故にならず、

確実に安全に人々は帰っていくことができたと思います。

行楽を楽しむには、ルール厳守! 思いやり必須!

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2008年7月16日 (水)

言葉遣い

丁寧に表現したつもりで、間違えやすい言葉。

「とんでもない」

褒められたときに、謙遜して使われます。

「褒められたから謙遜して、“とんでもございません”って言ったら、

一瞬微妙な顔されたんだけど、何か変?」

と、知人に尋ねられました。

「とんでもない」で、1つの言葉なので、

「とんでもございません」としてしまうのは間違い。

この場合、「とんでもないことでございます」が正しい表現。

ただ、「とんでもないことでございます」と言えば間違いなくて、

それでOKというより、伝え方が重要だと考えます。

正しくは言っていても、心がこもっていなくて、

相手が「ぞんざいだな」など、感じが悪いと受け取れば、正しいとは言えない。

相手との関係性にもよりますが、「とんでもないことでございます」まで丁寧でなく、

「とんでもないです」や「とんでもない…」と、やわらかな物言いで、

相手が感じよく受け取ってくれるなら、丁寧な応対ということになる。

正しい言葉遣いのほかに、表情や声のトーン、ニュアンスなど、

表現プラス態度全般で、“言葉遣い”なのだと思います。

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