2008年10月 6日 (月)

時々

野菜や果物は時期を問わずに口に入る昨今だが、

あの芳香は季節の記憶をよびさます。

キンモクセイの香りを味わったときのことを綴った、新聞記者の言葉です。

この記事を読んで、キンモクセイの香りを思うと同時に、

「あの芳香は季節の記憶をよびさます」という言葉に共感。

四季折々の自然は、季節を感じさせてくれる。

時が経てば姿を消してしまう、時季限定で出合える自然。

また次の“時季”を待たなければならない。

だからこそ、また出合いたくなるし、再会したときの喜び、幸せを得られる。

梅、ミモザ、白木蓮、桜、紫陽花、ひまわりなどの花。

清々しい気持ちをくれる新緑。

寒さ厳しい冬に佇む裸木が醸し出す潔さと寂寥は、

気持ちの居住まいを正してくれる。

改めてそんなことを考え、季節の偉大さ、四季がある幸せを思います。

そして、“時季”を“時々”という言葉に置き換えてみる。

「時々」は、生きる中で、メリハリを利かす大事なことかもしれない。

時々出合える舞台、映画、絵画、写真などなど。

時々行ける旅行。

時々できる、ちょっとフンパツした外食。

時々(極まれに?)できる思いきった買い物。

それから、時々より難しい(なかなかめぐり逢えない)ご縁。

みな、時々だからいい。

容易くないからいい。容易くないほどいい、のかもしれない。

時々があるから、てんこ盛りのままならないことも、受けとめることができる。

物には必ず“裏”がある。

時々があるから、裏側の毎日にいろいろなことを発見できる。

大切にしなければと気づける。

小さな幸せで笑うことができる、気がする。

表と裏の両方に、生きている喜びがある。

そう思えば、時々さまさま。

目下、時々の紅葉が見たい。どこかで見られるかしら。

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2008年8月11日 (月)

理想の暮らし

理想の暮らし、清貧。

ずっと以前、水上勉さんの本の中で“清貧”という言葉と出合いました。

(あ、いいな)と感じ、背筋がピーンとなった記憶があります。

清貧。

最初は、モノクロ時代の映画に出てくる暮らしをイメージ。

イメージには、原節子さんをはじめ、当時の女優さんの品のいい立ち居振る舞い、

美しい言葉遣いがセットになって浮かびます。

現代に欠けているけれど、必要なものでは。

そう思い、いつしか、清貧は私の中で理想となっていきました。

高度経済成長前の日本社会を映す映像、ニュース、書物。

それらに触れて気づいたこと。

品格とは、暮らしの中から生まれるもの。

贅を望むのではなく、質を求める暮らし。

審美眼を鍛えて、シンプルに質素に暮らす。

丁寧に日常を紡ぎ、文化を大事にして心豊かに生きる。

そのためには工夫がいる。

自分なりの考えがいる。手間ひまもいる。

それこそが、現代に必要であり、最も品格ある生き方ではないでしょうか。

頭を使い、感覚を鍛え、清貧で上質な暮らしに辿り着きたい。

1週間、ブログを休み、来週の月曜日にまた更新する予定です。

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2007年12月14日 (金)

カメ子のクリスマス

人生にはいろんな岐路がある 大きな分かれ道 小さな分かれ道

みんなが幸福 それが一番いい

自分で選んだ自分の人生 誰のものでもない 私の人生

(たぶん)19の頃に見たドラマ「29歳のクリスマス」。

大好きなドラマでした。

CM前に、山口智子さん演じる女性の心の声だと思われる言葉が字幕で出てきます。

冒頭の3つはその中のもので、特に印象的だったものです。

19の頃、29歳はとても大人に思え、

「素敵、のスタートの歳」と考えるようになりました。

実際に29歳になった自分は、幼く未熟だと自覚。

それまでぼんやりだった「おとな・淑女(レディ)」への憧れ。

29歳のクリスマスを過ぎたときに、「ここからなんだ!」とはっきり感じるように変化。

それは「まだまだ若い」でも「まだいけるんだ」、「まだ枯れない」というものでもない。

「女性という花を咲かせることができるか問われるスタート地点」

「若さという防護服を脱ぎ、素材で判断されると覚悟するとき」という、

魅力的であり厳しい、コインの裏表を感じるもの。

このときが“ウェルカムエイジング!”と本格的に考え始めた大きな分岐点です。

あれから3年。相変わらずカメの歩み。

少々ゆっくり過ぎるかなと、小さく焦りも必要かもと思う今日この頃。

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2007年11月21日 (水)

まずは、食べなきゃ

食べることは、生きること!

しっかり食べてエネルギーを得なければ生きていけないので、欠かせない。

食べ物を口にしないと命が危ないということはもとより、

日常を紡ぐためにも、何かを頑張るためにもエネルギーが必要。

弱った気持ちも何か食べると、ポジティブになれる。

10代、20代前半くらいは、悲しいことがあったとき、悔しい思いをしたとき、

絶望したときすら、大泣きしたあとは、必ずおなかが空く。

猛烈におなかが空くので、泣きながらご飯を食べていました。

負の感情はエネルギーを消耗する。

気力を持てないなかで、おなかが空くということは、

良くない状況を打開したい人間の本能的欲求によるパワーなのだと、思い返して実感。

4年前、母が病気になって手術したときも、待合室でおにぎりを頬張っていました。

兄には「こんなときによく食べられる」と言われましたが、

こんなときだから、食べなきゃ看病乗り切れない!

今は風邪一つひけないんだから!

と、結局3つも食べました(3つは、エネルギーにしても食べすぎ?…やはり食いしん坊)。

元気があれば、なんでもできる

と、アントニオ・猪木さんが仰っています。

その元気のためには、食べなきゃ。

食べることは、生きること!

そして、できるなら、

活き活きと、自分を活かして生きたい。

まずは、食べなきゃ。

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2007年9月15日 (土)

しがみつく相手

昨夜は、貧血でダウンしてしまい、更新が遅れました。

不届き者かもしれませんが。

特に何の信仰もありません。

お寺や神社が大好きです。

仏像に惚れ惚れします。

教会の建物や雰囲気も好きです。

十字架のアクセサリーが好きでよく身につけます。

日本文化は仏教と関連が深い。

西洋文化はキリスト教と関連が深い。

その他にも世界中、様々な文化は宗教的なものと関わりが深い。

そういう中で知る考え方や言葉は興味深く、心に残るものもあります。

ただ、そこから信仰しようとは思いません。

先月、新聞に興味深い記事がありました。

生まれたばかりの赤ちゃんは、本能的に母親の愛を信じ、乳房にしがみつく。

人間、こういう本能は一生続くのだろう、と書かれています。

さらに、「だから人はどうしても何かを信じる」と書かれており、

この先は、仏教について語られていました。

結びには「何かを信じて生きるなら、心の底から納得できるものを信じたい」

「無垢な赤ん坊だって、50年もたてば、しがみつく相手を自分で選ぶ」とありました。

人はどうしても何かを信じる。

……何?……何かあるかしら?……特にない…。

人を信じてはいます。人の言葉を信じます。力をもらえます。

それは“しがみつくもの”ではない。

記事にあったもので考える。

神、ピンとこない(私が“神”と思えるのは、すべての“自然”なので)。

社会、それは、ひとが紡いでいくもの。

地位・肩書き、興味なし。

その他は、何だろう。

仕事・夢は、信じるって話ではない。

お金、違う。

恋、これも信じる信じないとは違う。

考えてみると、結構難しい問題。

強いて信じていると言えば、「現実」と「時間」かな、と。

現実には嘘が潜んでいることが多々ある。

嘘の隠れた事実。手探りで掴まなければならない真実。

自分の考え・感覚が変われば、現実がガラッと違うものになることもある。

幸でも不幸でも、楽しくても厳しくても、一切関係なく進み続ける時間。

こちらには嘘がない。

決して時間が平等だとは思わない。

恵まれて時間を過ごす人もいれば、絶望の中で過ごす人もいる。

長く時を刻む人もいれば、志半ばで亡くなる人もいる。

不平等なものだと感じます。

嘘のない“時間”の中で、嘘を含んだ“現実”にしがみつく。

そのためには、自分が感じること・考え判断すること・選択することに頼るしかない。

ちょっと強引な結論。

強くもないし、欠点はどっさり。自信があるわけではありません。

それでも結局、信じてしがみつく相手は、私自身なのだと。

物事によって、歳月で考えは変わりますが、

きっとしがみつく相手は一生変わらないのだろうなぁ、という気がします。

と、本来はここまでだったのですが、昨夜の貧血で1つ追加。

しがみつく相手。健康!

アントニオ猪木さんがよく、「元気ですか~! 元気があればなんでもできる!!」

と、仰っていますが、あれ、真理ですね。

何をやるにもまず、元気がなくちゃ。

元気がなければ、頑張りたいことも頑張れない。

健康第一!

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2007年8月10日 (金)

またひとつ、ウェルカム

近々、年齢という衣装が1枚追加されます。

通算32枚目。

31枚目はきちんと着こなせただろうか。

……、反省点が多数。

もっと大事に出来たのではないか。

もっといろいろな着こなし方があったのではないか。

もう少し上手な使い方が出来たのではないか。

日々の様々なワードローブとのコラボレーション。

30枚ではわからなかった着かたや“自分”。

31枚目を自分のものにしたいと奮闘しているうちに、

知ったことや、見えてきたことがありました。

相性のいいもの悪いもの。

私とは合わないアイテム、私には必要のないアイテム。

31枚目がなければ気づかなかったこと、覚えなかったこともたくさんありました。

私の一部になった31枚目に感謝。

そして、

これから着かたを覚えていく32枚目。

1年後、「素敵に纏えたわ」と思えるように頑張りたい!

諸事情により、8月いっぱいブログを休みます。

9月3日より再開いたしますので、またご覧いただけたら幸せです。

みなさま、よい夏をお過ごしくださいませ!

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2007年3月16日 (金)

ああ、身の程

「人は身の程を知らなければダメだ。身の程を知ってナンボ」

という知り合いの発言を耳にして、違和感。

違う気がする。なんかもっとこう……、違う。

そもそも身の程って、なんだ?

武家社会、公家社会、士農工商時代じゃあるまいし。

人が人を「身の程~」って考えるのがバカバカしい。

やんごとなき家のお方なんて今の時代、そうそういない。

貧富の差はある。しかし現代、能力は各ジャンル、うなるようなプロは少ないのでは。

みんなどっこいどっこいなら、身の程がしっくりあてはまる事柄は少ないのでは。

「自分をわきまえる」ということだとすると、知るべき・知っておくべきは、

「身の程」ではなく自分の「性質」ではないかと。

自分の中の善悪、誇る部分、恥じる部分、守る部分、直すべき部分、そして業。

自分の性質から目を逸らさず、時々じっくり向き合い続けること。

必要なのはそれではないか。

それが違和感の正体でした。

そして思い出しました。6年か7年前に書いた詩。笑いました。

もっとずっと先。天寿をまっとうするときに、

「はい、よく生きました。これで完成」

そう思って笑いたい。

という目標があるので、書いたときの自分の気持ち、わかります。

書いてあること、今でもそう思います。

ただ、キツイ。言い方にやわらかさがなくてノン・ポエジー。

そんな過去の自分に共感したので。

「身の程は知りません」

身の程は知るべき? 知ったらつまらない

人間なんて皆 ちっぽけ それでも

どの命もかけがいのない たったひとつ

結構大切じゃないかしら

「プライド」「つまらない意地」

いくつになっても結局

わからないことだらけ

「確かなもの」なんてそんなにない

てのひらに乗るくらいあればいい方

割り切れないなら  割り切らない

譲れないことは 譲らない

「ダメな人」 そう ダメでしょう

いたらないこと 失敗の数々

これまでのすべて なかったことにはできない

だから 自信勝手といこう

雑誌の占いに書いてあった

「物事こだわり過ぎずにおおらかに」

「直感と好奇心を大切に」

「あなたは自分を曲げない人です」

そうですか ではそうしましょう

立派な人生じゃなくてもいい

褒めてもらうために生きるわけじゃない

そう言ってられないことが

これからたくさんあるでしょう

でも 身の程なんて知りません

いつかくるエンディング

きっと叶う

納得してると信じてる

きっと笑って死ねるって

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2007年3月 9日 (金)

流浪の民

慣れし故郷を放たれて~、夢に楽土求めたり~♪

『流浪の民』という曲の歌詞。

先日、母が口ずさんでいるのを聴いてから、ここ数日、

ふとした拍子に頭の中で『流浪の民』が流れます。

気を抜くと、電車内や道で口ずさみそうになります。

中学の合唱コンクールで自分のクラスが歌った歌。

とても好きな歌でした。

実際の流浪の民の生活、歴史をきっちり知らないので、うかつなことは言えない。

ですが、「慣れし故郷を放たれて、夢に楽土求めたり」

という言葉に憧れを覚えたことがあります。

もし、あのときこうだったら…、あのときこうしていたら…。

もし~と考えてもキリがないので、まず考えません。

が、1度考えたことがありました。

もし、ものすごく丈夫で、風邪ひとつひかず、

学校は皆勤賞というような健康優良児だったら。

最低限の語学を身につけ、お金を貯め、世界中を旅して生きたい。

観光地を回るのではなく現地の人と触れ合い、生活を知り、文化を学ぶ。

生半可ではなく大変であっても、その土地で仕事を探して働いて、

別の土地へ移動して。

自分の細胞すべてで、たくさんのことを感じていくために、時間を活かして生きていく。

不安定ではあっても、そんな人生があってもいいのではないか。

という、かなり現実味のない夢物語を想像してみました。

そんな無鉄砲をしないために、屈強な健康優良児ではなかったのかもしれない。

今の私であることに意味があるはず。

きっと一生飽きることがなく、もっともっと考え、

学び続けたい、自分と切り離せない大好きなことがある。

それをまっとうしたい。

しばしば揺れて迷走しますが。

「楽土」は自分の中にある。どこにいても、どんな人生でも。

以上、ちょっとした空想話でした。

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2007年3月 2日 (金)

縁の神様

根拠はありませんが、信じていること。

授業をあまりまじめに聞かない学生だった私。

中2のとき、国語の教科書に載っていた話がおもしろくて、

その授業は夢中になって聞きました。

しかしその後、作者の名前を忘れ、授業のことも忘れました。

7年後、

古本屋の店先のワゴン内を何気なく覗くと、何十冊ある中の1冊が目にとまる。

瞬間的に「これを読まないと!」と思い即購入。

読んでみてどっぷりハマリました。

この人の本をもっと読んでみたい!

翌日、本屋で作者の本を何冊か購入。

その中の1冊『夜中の薔薇』を読んで「あっ」と声を上げました。

中学のとき授業で読んだ「時計なんか恐くない」が載っている。

14歳の私がワクワクして読んだ話を書いたのは、向田邦子さんだったのです。

以来、今でも尊敬する憧れの人。

何かを欲しているとする。

しかしそのときは、どれだけ探しても望んでも出逢えない、掴めない。

悔しかったり、寂しかったり。

月日が流れ、あるとき不意に目の前に現れる。

そういう「縁」ってあると思います。

人・物・事柄。

人生の中を通り過ぎるだけのものがある。

道ですれ違った人。

入ったお店で目にとまったもの。

お店の店員とお客。

そんなわずかの接触、かすっただけの短い間に、

わずかでも何かを感じたなら、忘れたころに何らかの形で関わる日が来るかもしれない。

また、目の前に現れたのに、別のところを見ていてニアミスってことも。

でも、自分の人生に必要なら、意味があるなら、必ずまた現れる。

出逢って時間をあけない縁もある。

それはその「縁」に対して自分の準備が出来ていたから。

「そのとき」必要だったから。

向田邦子という作家の本を読み出すのが14歳のときではなく、

21歳の私だったのも、21歳の私が読む意味があったと思う。

縁の神様が向田邦子という作家の本に出逢わせてくれた。

向田さんからたくさんの私淑を得られた。それは計り知れない。

必要なものとは必ず「縁」があり、出逢える。

ただし、適したときに巡ってきても、気づかずに縁が去ってしまうと哀しい。

キャッチできるよう、五感のアンテナはしっかり働かせていたい。

そうすれば、時々顔を出す不安や寂しさ、

空を掴むような切なさ・もどかしさは、恐くなんかない。

大切で必要なもの。

これが「時計なんか恐くない」との縁への、今の私の答え。

……都合のいい考えかしら?

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2007年2月 5日 (月)

とっておいた苺を食べていく

前回、よく歩くということを書きました。

何度かブログで書きましたが、以前はあまり丈夫ではありませんでした。

高校生の頃から長らく虚弱期間もありました。

ハタチを過ぎた一時は、足や腰に激痛が走り、起き上がれなかったこともあり、

自分はどうなるんだろうと不安でした。

また、この世の外に締め出されたような感じがして焦りました。

時間が「過ぎる」というより「消滅」していくようにさえ思えました。

イライラと卑屈になって、鬱屈した自分をもてあます。

そんな時、ありがたいことに年上のお友達が、

「今、周りの子と同じことが出来なくでも大丈夫。あなたは自分で決めて、

 自分で考えた今出来ることをしているでしょう。それが意味を持つ日が

 必ずくるから。今我慢していることはあとでやったっていいんじゃない?

 お楽しみをとっておくと思えば」と言ってくれたのです。

諦めたくないことがたくさんある。でもどうにも気持ちが塞いでしょうがない状態に、

望みをくれた言葉。

「お楽しみをとっておく」。

確かに好きなものは最後に食べるくせがある。

我慢していることを「ショートケーキの苺」と思うことにしました。

「いつかみんな食べる!」がモチベーション。

なかには間に合わなかった苺もあり、切ないですが縁がなかったと思って、

しょうがない、さようならです。

それにあまり欲深いことをいうと、食べられる苺まで失くしそう。

ウロウロと歩き回るのも、「ステイ」状態だった反動。

自分を取り戻すというか、動き回れることを体感し、味わうというか。

これも好きなことを元気にできるという意味で苺の1つ。

幸せを味わっています。

両手いっぱい、山盛りに苺だらけ。

私にとっては千○屋のものより極上。

1粒ずつ堪能していく予定です。

話が変わりますが、なるべく週5日ブログの更新をしようと思っていたのですが、

しばらくの間、月・水・金に更新します。

回数が減りますが、お読みいただけたら嬉しいです。

よろしくお願い致します。

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