« 2008年9月 | トップページ | 2008年11月 »

2008年10月30日 (木)

注意事項

ボール、みかん、鳥の落し物、蛍光灯、いが栗など…。

みな、頭上に落ちてきたもの。

子供の頃から、落下物に遭遇しやすいらしい。

友人たちには「ある意味奇跡だよね」と言われ、

他にもハプニングにちょこちょこ合うことと併せて、

「笑いの神が降りてる」などと言われてしまったこともあります。

笑いの神は降りていませんが、間の悪さと落下物の危険は自覚しています。

だから、頭上注意は心がけています。

電線の下を通るときは、鳥が止まっていないか確かめる。

鳥がいる場所は避ける。

歩道にある道路標識などの下はすばやく通過。

工事中のビルの前もすばやく通過。

など、頭上注意は習慣化。身についています。

先日、とある画廊の前を歩いていて、最近、絵を見に行っていないなぁ、

何か見に行きたいと考えていたら、

ドカッ!

別のお店の看板にぶつかってしまいました。

注意力散漫…。

頭上だけではなく、周囲全般、ちゃんと見なくては。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年10月27日 (月)

いのちの重さ

ポチたま

という番組があります。

毎週金曜日、テレビ東京で放送中。

毎週は見ることが出来ませんが、見られるときは見ています。

住宅事情で犬が飼えない今、動物番組は和みの1つ。

いつか念願の犬を飼うことを夢みて、テレビで和み、

友人宅の犬や猫に癒されております。

動物についての番組で和み、癒されるだけではなく、

取り上げられるテーマや報道などでは考えさせられることも。

人と動物について、特に人の身勝手、エゴについて。

命をなんだと思っているのか。

重みを感じていない人に対しての怒り。

八王子で、捨てられた17匹のチワワが保護されたニュースが、最近報道されていました。

身勝手極まりない!

保健所に連れていかれた犬についての報道を見ると、

オリに入れられた犬の表情が胸に刺さります。

なんとか“処分”されずに保護された犬も、

飼い主に虐待を受けて心を閉ざし怯えていたり。その瞳は辛すぎます。

犬だけはありません。

ワニやヘビ、珍しい動物を飼いたがり、持て余し、

無責任に世話を投げ出す人の話を聞くたびに、ため息がでます。

大人が命に対してあまりにも身勝手で、尊さを持たずにいる。

そんなことが溢れる世の中で、

どうして子供たちが命の尊さを覚えていくことができるでしょうか。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年10月23日 (木)

和洋・マナーのルーツと今

日本の礼法のルーツには、貴族社会、武家社会があります。

最古のものは、聖徳太子の「冠位十二階」や「憲法十七条」。

それから平安に「公家有職」、鎌倉の「武家故実」、

ふたつを合わせた「有職故実」と複雑に絡み合い、礼法が確立されていく。

それがやがて江戸、明治と庶民の生活の中にも必要なものとして広がっていった。

江戸時代には「江戸しぐさ」という素晴らしい

「生活の知恵、ルール、心を育むしつけ、教え」などなど、江戸庶民の文化が

築かれていったのです。

明治以降は文明開化に合わせ、流れ込んできた西洋文化に合わせて

変化していったのです。

一方の西洋はというと、

ギリシャ・ローマ時代に始まり、中世の封建時代→絶対王政時代に、

基礎ができたといいます。

王朝支配のなか、主君と家臣の上下関係を成立させ、

「命令」と「服従」の秩序を維持するために、マナーや儀式が必要で確立された。

また、多くの民族と国家が絡み合うヨーロッパでは、

マナーの成り立ちは際限なく複雑に絡み合っているらしい。

複雑だからこそ、共通の約束事がなければ、社会が維持できなかった。

さらに、宗教などの影響を受けながら、普遍性を求め、

主張、妥協、譲歩をしながらマナーが形成されていったそう。

和洋どちらもルーツでは政治が大きく意味を持ち、権力やら身分やらと

いろいろあるようですが、最終的には人。

人々の暮らしのためにあるべきものとなっていった。

人が社会のなかで、互いに助け合い、思いやりをもって生きていくためのものとして、

現代でも、この先の未来でも大切にすべきもの。

長い長い歴史を経て、和洋を問わず、王や貴族、公家、武家、平民などの

身分制度の時代ではない現代。

わざわざ、上流、下流(少し戻ると勝ち組み、負け組み)という言葉を用い、

他者と比較して上下優劣を争う。

誰かがそういうことを言い出して、煽られて乗ってしまうのはもったいないと思います。

江戸しぐさのように、良い世であるために、みんなが気持ちよく暮らせるように。

マナーを「生活の知恵」として大切にしていけたら。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年10月20日 (月)

金色の野

週末、箱根・仙石原に行ってきました。

今度、お友達に誘われて山登りに行くという母。

久しく遠出していないので、体力が心配らしい。

行楽のウォーミングアップ(?)のつもりでちょっと出かけてみないかと提案。

1度行ってみたかった仙石原のすすきに向けて出発。

新宿からロマンスカーに乗って約1時間半で、箱根湯本に到着。

そこからのルートは、

登山鉄道→ケーブルカー→ロープウェイ→登山バスと乗り継ぎ、仙石原。

途中、ロープウェイで、高所恐怖症にも関わらず、端に乗ってしまい、

中間地点の大涌谷に着くまで生きた心地せず。

少々、大涌谷を散歩して気を取り直し、芦ノ湖畔の桃源台にて昼食。

芦ノ湖の別の地点ではありますが、箱根駅伝は東京・大手町から芦ノ湖まで、

学生たちがタスキをつないで走っていく。

いくつもの乗り物を乗り継いでやってきたこの芦ノ湖まで、彼らは走ってくるんだなぁ。

芦ノ湖はそんな学生たちをずっと見てきたんだと思うと、少々感動。

さて、芦ノ湖の桃源台をあとに、いよいよ目的地・仙石原。

予想以上に溢れるすすき。

あたり一面、見渡す限りすすき野原。

そよそよと風に揺れ、光が差すと、黄金色に輝きます。

子供の頃に観た映画『風の谷のナウシカ』のクライマックスシーンの言葉。

その者、青き衣を纏いて金色の野に降り立ち…

をパッと思い出し、

♪ラン、ランララランランラン♪ という歌が頭の中に流れ出す。

「金色の野だ~」と浮かれます。

もちろん、青き衣の勇者などはおらず、大勢の観光客と共に、

すすき野原を眺め、すすきの中を歩けるようになっている小道を散歩。

小道を歩いてみて、なかに入ってしまうより、全体を見渡す方が圧巻で楽しいと結論。

雲で光りが差さなくなる前に、最後にもう1度しっかり全体を眺め、バスで強羅へ。

そこから登山鉄道で箱根湯本→ロマンスカーにて箱根をあとにし、帰路に着きました。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年10月16日 (木)

おいしいご飯

食いしん坊。

食べることに目がない。

何が好きか、気分によって好物も変わる。

しかし、究極的にいちばん好きなのは、やっぱり、

ご飯! お米!

数々の好物たち。

皆、単品でというよりは、ご飯と一緒に食べたいものばかり。

たかがご飯、されどご飯。

いや、たかがなどと言ってはいけない。

ご飯さまさま。

先日行った大陶器市にて、「萬古焼のおいしいごはん鍋」なるものに遭遇。

昔ながらのおいしいご飯が炊ける。炊き時間も3合で15分ほど。

5合炊きでも20分足らず。しかもカマドで炊いたようなおいしいご飯、らしい。

カマドでご飯を炊いていた時代を知らない私。

昔ながらのご飯は炊飯器のご飯とは違う、と年配の方たちがおっしゃるのを聞くたび、

ちょっと羨ましく感じていました。

母も、子供の頃の思い出として話していたことがありましたが、

鍋で炊くならではの「おこげ」がいいらしい。

昔ならではのご飯が食べられる鍋……、魅力的。

買おうかどうか迷いに迷い、その日は買わずに帰宅。

即決しなかった理由は、お店に張り出されたチラシに、

ホームページにてレシピ紹介と書かれていたため。

ホームページがあるということは、今買わなくても買える。

それに、他にも同じような鍋はあると思うので、少し研究してから買っても遅くない。

帰宅後、居間のマガジンラック内の、「暮らしの風」という冊子

(朝日新聞購読者に届くもの)が目にとまり、手にとってみます。

特集は、「お米を食べよう」というもの。

おいしいご飯を食べたいという人が増えており、

土鍋で炊く方法が見直されているというもの。

鍋で炊くご飯のよさ、炊くときのちょっとしたコツが説明されている。

ご飯鍋に興味を持ち、どんなものを買うか研究しようと思った日に、

お米を食べようという記事を読んだ。

これは、意味ある偶然かもしれない。

ちょこっとネットで検索してみると、萬古焼に限らず、いろいろな鍋がある。

南部鉄器の鍋やホウロウ鍋などさまざま。

“昔ながらのおいしいご飯”、“炊飯器とひと味違うご飯”のために、

じっくり検討し、さらに調理器具を扱う道具街などで現物を探して、

見て、手にとってみて選ぼうと思います。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2008年10月13日 (月)

大陶器市

連休、日曜日の上野公園にて。

現在開催中の大陶器市へ行ってきました。

フラッと入ったお店で、好きだなと思った食器を衝動買いすることが多々あります。

それはそれで一期一会だと思いますし、楽しい。

ただ、シンプルに生きたいという気持ちが年々強くなってきています。

必要以上にものを持たず、ずっと使い続けられるものをじっくりと選び、

大切に使っていきたい。

身のまわりを見つめ、焦らず少しずつ、

“シンプル・イズ・ベスト”な環境にしたい。

上手に暮らしを楽しめるように自分を鍛錬したい。

ということで、食器なども、ずっと使い続けられるモノとの一期一会を得るために、

もっと器と出合う機会を増やしたい。

そうして目を肥やすためと、陶器が見たいという趣味を兼ねて、陶器市へ。

リーズナブルなものから、手が届かない高価なものまで様々なものが溢れかえる市。

お買い得なもののなかには、あ、買って帰りたいなと思うものも。

しかし、今回は衝動買い禁止!を自分に言い聞かせていったので、我慢。

ひとつひとつの品物をじっくりと見て歩きます。

お店の人とお客さんの間の値引き交渉現場に何度も遭遇。そのやりとりを学びます。

お店の人がお話される豆知識や基礎情報に耳を傾け、また学習。

ゆっくり会場を3周。存分に満喫できました。

職人、伝統技術、日本が育んだ(しかし消えかけている)文化を知りたい、

と自分なりに勉強中の今。

もっと多くの市に足を運び、満喫したい!

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年10月 9日 (木)

俳優の緒形拳さん。

大ベテランで昔からご活躍でしたが、恥ずかしながら、

その魅力を感じとれるようになって10年足らず…。

ここ数年、素敵なひとだなぁと、その魅力にハマッてきていたので、

訃報に大変驚きました。

訃報を告げるニュースの中で、親しい方たちが語られるエピソードの中に、

ご病気をされた近所の方へのお見舞いの話が印象深い。

お花を贈る代わりに、「花」という直筆の書を届けられたそうで。

「粋だわぁ」とトキメキ、想像で贈られる立場になって考え、

「こういう“花”を贈られたらすごく嬉しいし、励みになるだろうなぁ」と思い、

ジーンときました。

「花」が人に与えるものはとても深くて大きい。

花を使った言葉は多い。

花を咲かせる。花笑み。花盛り。花便り。花の都。花道。

などなど、やさしく希望的な言葉は、

願いを託したくなるほどの、花の魅力ゆえに生まれた言葉なのではないでしょうか。

四季折々に花を感じたいと願う。

花を育てる。花を飾る。というように、日常の中に存在することを望む。

祝い事に花を贈り、文字通り幸せに花を添える。

悲しみ事に花を贈り、そっと悲しみに寄り添う心を伝え、慰めになるよう願う。

やはり、人の心に添うことができる、花が持つ力を本能的に知っているからこそ、

花を贈り、花を望み、花を愛でるのではないかと思います。

自分で楽しむ花も、自分の今が見えたりする。

楽しい気分のとき、辛いとき、悲しいとき、疲れているとき、

ストレスがたまっているとき、頑張る自分に弾みがほしいときと、

状況によって求める花が違う。

花は人の写し鏡の役割もあるのかしら、という気がします。

写し鏡であり、心に添うものといえば、花言葉もその1つ。

花言葉といえば、緒形拳さんの遺作となるドラマ『風のガーデン』が今日からスタート。

劇中には脚本家・倉本聰さんがお作りになった花言葉が出てくるらしく、

確か、それは緒形さんが演じる役の人が作っている設定だったと思います。

それもとても楽しみ。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2008年10月 6日 (月)

時々

野菜や果物は時期を問わずに口に入る昨今だが、

あの芳香は季節の記憶をよびさます。

キンモクセイの香りを味わったときのことを綴った、新聞記者の言葉です。

この記事を読んで、キンモクセイの香りを思うと同時に、

「あの芳香は季節の記憶をよびさます」という言葉に共感。

四季折々の自然は、季節を感じさせてくれる。

時が経てば姿を消してしまう、時季限定で出合える自然。

また次の“時季”を待たなければならない。

だからこそ、また出合いたくなるし、再会したときの喜び、幸せを得られる。

梅、ミモザ、白木蓮、桜、紫陽花、ひまわりなどの花。

清々しい気持ちをくれる新緑。

寒さ厳しい冬に佇む裸木が醸し出す潔さと寂寥は、

気持ちの居住まいを正してくれる。

改めてそんなことを考え、季節の偉大さ、四季がある幸せを思います。

そして、“時季”を“時々”という言葉に置き換えてみる。

「時々」は、生きる中で、メリハリを利かす大事なことかもしれない。

時々出合える舞台、映画、絵画、写真などなど。

時々行ける旅行。

時々できる、ちょっとフンパツした外食。

時々(極まれに?)できる思いきった買い物。

それから、時々より難しい(なかなかめぐり逢えない)ご縁。

みな、時々だからいい。

容易くないからいい。容易くないほどいい、のかもしれない。

時々があるから、てんこ盛りのままならないことも、受けとめることができる。

物には必ず“裏”がある。

時々があるから、裏側の毎日にいろいろなことを発見できる。

大切にしなければと気づける。

小さな幸せで笑うことができる、気がする。

表と裏の両方に、生きている喜びがある。

そう思えば、時々さまさま。

目下、時々の紅葉が見たい。どこかで見られるかしら。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年10月 2日 (木)

野次

テレビで政治、経済そのほか各種討論、国会中継などを見るたびに、

「それはいかがなものか」と思うこと。

“話の割り込み”と“野次”。

議論なんてそういうものだという人もいますが、

そうではないやり方でも話し合い、議論はできると考えます。

「世の中そういうもの」という言葉と同じで、

“そういうこと”にしておくほうが楽だから。という言い訳に思える。

「人が話をしているときに、口を挟まない」

「話は最後まで聞く」

「話に割り込まない」

と子供の頃、大人に注意された経験。

覚えのある人は多いと思います。

たしなめられて、会話を覚えていく。

言葉を覚え、話し方を覚え、会話の仕方を覚え、

そして議論の仕方も覚えていく。

だいたい、そのようなプロセスを辿るものだと思います。

それがいつの間にか「そういうもの」のほうに流れると、

話の横取り、妨害、自己表現優先になり、ひいては相手を負かす勝負色が

強くなるのではないでしょうか。

話し合いは勝つか負けるかのためにするのではなく、

人と人との間をよくするために必要なのでは。

いい話ばかりではない。そういうときは、妥協点を探したり、

○○は折れるが、△△は譲れないというように、双方の間で決めていくものでは。

そのためには、割り込み、妨害はマイナスだと思えるし、

まして野次にはマイナスしかない。

野次からいいことが生まれたり、いい流れになるとは思えない。

話し合いは理性的にすべきだと聞いたことがあります。

感情的に物事を進めず、理性的に行うべきだと。

割り込みや野次はまさに、感情的なもの。

やはりすべきではないもの。

にもかかわらず、討論に多い2点セット。

本来、国の舵取りを任されている人たちが集まり話し合いをするべき場である国会。

恐ろしく野次の嵐。

テレビでその様子を見るたびに、ため息が出る。

本当は重要なことを話し合っているのに、国民の幸せ一切なしだとさえ思える、

ただの争いは勘弁してほしい。

という他に、国の舵取りの場で稚拙な感情的会議はいい加減終りにしてほしい。

汚い言葉の野次の応酬。

公人のすることではない。

国のトップの人たちにマナーがないと、若者にしめしがつかないのでは。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2008年9月 | トップページ | 2008年11月 »